みな、よろし。

参考資料

このゲームの史実部分は、以下の資料で確かめられた範囲で描いています。

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史実・伝承・創作の区別

史実 資料で確認できたこと 伝承 伝えられているが確証が弱いこと(ゲーム内でもそう表示) 創作 物語として加えたこと

章史実伝承創作
序章1782年 日田・豆田町の博多屋に生まれる、日田は天領、8歳で長福寺の法幢に『詩経』を学ぶ、10歳ごろ松下筑陰に入門、13歳で代官・羽倉権九郎に『孝経』を講義、元服—父・母・近所の子とのセリフ、クイズの出題
第一章1797年 16歳で亀井昭陽の塾に入門、亀井南冥・昭陽父子、1799年の暮れに病で退塾—亀井父子や塾生のセリフ
第二章療養の日々、病気がちのため家業を弟・久兵衛にまかせる、講学で身を立てると決める目の病のため注釈を読まず本文だけを読み、それが独自の解釈につながったこと父・母・久兵衛とのセリフ
第三章1805年 長福寺の学寮で講義を始め、成章舎を開く、1807年 桂林荘、「休道の詩」(桂林荘雑詠 諸生に示す、七言絶句。原文「休道他郷多苦辛…」も画面に表示)—素読の場面のセリフ(素読・輪読・輪講は咸宜園の課業として史実)
第四章1817年 堀田村に咸宜園、「咸宜」の由来(『詩経』)、日課(朝5時起床・清掃、6時輪読、夜10時就寝)、職任(都講・舎長・蔵書監から宿直・日直まで一人一役、自治的運営)、三奪の法、月旦評(級外から一級〜九級の上下で19段階、課業=素読・輪読・輪講などと試業=詩・文・書・句読を月9回、「権」つきの仮昇級と消権)、旭荘の入門(10歳)、1818年 頼山陽の来遊、1820年の月旦評に103名、塾生の多くが庶民咸宜園いろは歌「鋭きも鈍きも…」(いろは歌の一首として伝わるもの)武士の子・百姓の子・僧の塾生のセリフ、点数の例、試業ミニゲームの問題(科目=詩・文・書・句読は史実。出題は『論語』・休道の詩などから作成)、張り出された月旦評の画面と「あなた」の級(イメージ)
第五章1824年 風邪で100日以上休講、1825年 大病と田能村竹田の見舞い、旭荘が塾政を代わる、1830年 塾を旭荘に委ねる、1831年 日田郡代・塩谷大四郎の干渉で塾生が減る、久兵衛が郡代の命で開発事業を進める、1836年 旭荘が大坂で開塾干渉の理由(はっきりしない、と表示)郡代の使いのセリフ
第六章54歳ごろ万善簿を始める(『陰隲録』の影響)、敬天思想、1842年 名字帯刀、1843年4月7日 村田蔵六(大村益次郎)の入門、長三洲の入門(15歳)、1848年 一万善の達成、善に白丸・悪に黒丸をつけ食べすぎは黒丸としたこと学制の基礎に咸宜園のしくみがあったとされることクロマルとの問答、塾生のセリフ、万善簿に丸をつけるミニゲームの個々のおこない(講義・見舞い・米を分ける・しかる)
終章1855年 広瀬青邨に塾を委ねる、1856年『淡窓小品』と墓碑文、11月1日に75歳で死去、咸宜園は1897年まで続く(入門者数は資料により約3,000〜4,600人)、門人:羽倉簡堂・大隈言道・広瀬旭荘・広瀬青邨・村田蔵六(大村益次郎)・長三洲・上野彦馬(1852年入門)、淡窓の死後に清浦奎吾、国史跡、2015年 日本遺産高野長英が学んだとされること(入門簿に名はない)久兵衛・青邨との最後の会話、門人を並べた帳面の画面(イメージ)
全編——ヘイソク(ミブン・クロマルなど)との問答バトル、白丸あつめ、どうぐとわざの仕組み

ウェブ資料

古典・原文

おことわり

このゲームはフィクションの結末を入れず、史実の生涯を描いています。会話の細部は物語として補っています。誤りに気づいた方は、制作者までお知らせいただけるとうれしいです。